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木下孝治社長/エムアンドケイ社長の経歴や学歴は?家族はどんな人?

エムアンドケイ社長の木下孝治氏の座右の銘を聞いていると、大変ためになります。

おぬま

ここで分かることはこれだよ!

  • エムアンドケイ社長の木下孝治氏の経歴
  • エムアンドケイ社長の木下孝治氏の年収
  • エムアンドケイ社長の木下孝治氏の学歴
  • エムアンドケイ社長の木下孝治氏の家族
おぬま

エムアンドケイ社長の木下孝治氏はこんな人!

木下孝治/エムアンドケイ社長の経歴は?

<木下孝治氏の経歴>

1951年:石川県金沢市に生まれる。

高校卒業後:北陸ミサワホーム→中元建築設計事務所→くみあい施設サービス

25歳:一級建築士合格

27歳:父親の工務店を引き継ぐ

1978年:株式会社木下建築デザイン事務所設立

1999年:株式会社エムアンドケイ設立

2011年:日本日本回転寿司協会初代会長就任

木下孝治社長は、1951年12月1日、石川県金沢市旧裏千菊町(現在の千日町)に生まれました。

四人兄弟の末っ子として生まれ、一番上の兄とは7つ離れていて、間に二人の姉がいるということから、とてもかわいがられて育つことになります。

父親は、一代で建設会社を設立した苦労人で、木下孝治社長は金銭的には不自由することなく育ったということです。

高校卒業後は、北陸ミサワホームに入社。
その後、中元建築設計事務所、くみあい施設サービスと転職し、25歳のときに一級建築士に合格しています。

また、上の兄が一般の会社に就職したことから、木下孝治社長が実家の会社を継ぐこととなりました。

木下孝治社長が27歳のときのことです。

後に、この工務店は甥に譲り、詩人は新しい事業展開を模索し始めます。

1978年には、株式会社木下建築デザイン事務所を立ち上げています。

さらに、1995年には、これまでとは違う高級路線の回転ずしのお店を金沢に出店

1999年には、エムアンドケイを創業し、社長に就任しています。

さらにその後、2011年には、日本日本回転寿司協会が発足し、初代会長に就任しています。

現在は、金沢うまいもん寿司をはじめとして、海鮮料理店や和食店を国内外に展開しています。

木下孝治/エムアンドケイ社長の年収は?

木下孝治/エムアンドケイ社長の年収

<エムアンドケイの年商>

53億円程度

<木下孝治の年収>

1500万円から2000万円(推定)

エムアンドケイの年商について調べてみたところ、53億円程度であるとわかりました。

株式会社エムアンドケイは、金沢まいもん寿司のほか、金沢かつぞう、寿司割烹魚匠庵、すし処あさの川、ラベットラ、カフェ、イルフリージオの経営をしています。

高級グルメ路線という、これまであまりなかった回転寿司の業態を作り、顧客層を取り込んだ国産の鮮魚にこだった店舗展開をしています。

北陸、築地を中心に全国の漁場から直接仕入れ、職人の技で提供するという本格派志向が受け、売り上げを伸ばしています。

また、木下孝治社長の年収について調べてみましたが、はっきりした情報はありませんでした。

ざっくりとした予想値にはなりますが、1500万円から2000万円くらいの年収になるのではと思います。

木下孝治/エムアンドケイ社長の資産は? 

木下孝治社長の資産について調べましたが、はっきりとしたことは公開されていませんでした。

木下孝治/エムアンドケイ社長の学歴は?

エムアンドケイ社長の木下孝治氏の学歴をご紹介します。

出身大学

木下孝治社長は高校卒業後、北陸ミサワホームに就職していますので、大学には進学していません。

出身高校は?

木下孝治社長の出身高校は、金沢市立工業高校です。

建築科で学びました。

建築業営んでいた父親の勧めもあり、こちらの高校に進学したということです。

この当時、日本は、ちょうど高度成長期の真っただ中で、建築関係の仕事は、人気の仕事でした。

高校の建築科も人気のコースでした。

高校在学中は、山岳スキー部のキャプテンをつとめていたとのことです。

このころから、リーダーシップを大いに発揮していたようですね。

木下孝治/エムアンドケイ社長の思想や座右の銘は?

木下孝治社長にとって、父親の存在は大きいようです。

父親の存在について、木下孝治社長は、「お父さんを尊敬しているか」との質問に、次のように答えています。

「もちろん、それもある。
けれど、私は父の生き様が好きなんです。
父から良く言われたのは『鶏口となるも牛後となるなかれ』という言葉です。
また、『武士は食わねど高楊枝』なんて、言葉も教わりました。
とても、プライドが高い人でした。」

鶏口となるも牛後となるなかれ」とは、「大きな集団の下の方にいるよりも、小さな集団のトップにいる方がいい」という意味です。

また、「武士は食わねど高楊枝」とは、「たとえ食事をしていなくても、武士であるのなら、満腹でいるようなそぶりを見せよ。ひもじい思いをしていると人に悟られるな」というような意味です。

末っ子として育った木下孝治社長は、大きな存在である父親の誇り高い後ろ姿を見て育ったということなのでしょう。

父親から経営を譲り受けることにはなりますが、引き継いだのは、事務所と看板のみだったといいます。

資金の援助も受けず、取引先もゼロから開拓したということです。

実質的には創業したようなもののようですね。

ただし、現在話題になっているのは、飲食店の方で、父親から受け継いだ建築業は、全くの異業種です。

木下孝治社長は、建築会社の社長として、いろいろな世界の人たちと交流するうちに、異業種の業界での展開を模索していくようになります。

そのあたりのことを次のように語っています。

「怖いもの知らずというんでしょうね。
地元経済界の重鎮のような人たちのところへも、どんどん出かけていきました。
アポもなしで、出かけていくなんて、いま思えばなんちゅう奴、ってことになりかねないんですが、不思議なことにみなさん快くお会いしてくださって。
そこでの出会いが、結局、私の財産になっていくんです。」

中でも、日本クレセントの社長である徳野信雄さんとの出会いは、木下孝治さんにとって大きなものとなりました。

日本クレセントは、回転寿司用コンベアの大手で、徳野信雄さんは回転寿司業界の高級化を考えていた人物の一人でした。

徳野信雄さんの影響を受け、木下孝治社長も本格派志向の回転寿司のチェーン店構想を思い描くようになるのでした。

建築業界から飲食店の経営へという大きな方向の転換を行った木下孝治社長。

初めからすべてがうまくいったというわけでは、ありませんでした。

「なんども失敗しました。
騙されたこともあるし、投資に失敗したこともある。
そのたびにみんなに支えられてきました。
落ち込むのは1日だけ。
そう1日だけで済むのもすべてみんながいてくれたからでしょう」

まわりに対する感謝を忘れないというのも、木下孝治社長の大事にするところです。

また、木下孝治社長の大胆な経営戦略は、これでは終わりません。

今後の展開を次のように語っています。

今後は街づくりをやっていきたい。
100年、200年、1000年そういう単位で、未来の子どもたちに関わっていきたいんです

なんと、今後は町を作っていきたいという夢があるとのこと。

父親が大事にしてきた誇りと周囲への感謝。
この両輪があって、木下孝治社長の大胆な経営は前に進んでいるようです。

そして、木下孝治社長は、次のようにも語っています。

少年の心を失ったら終わり

木下孝治社長の夢と挑戦は、当分終わりそうにありませんね。

木下孝治/エムアンドケイ社長の家族はどんな人?

妻である木下眞知子さんは、株式会社エムアンドケイ金沢まいもん寿司の取締役をつとめています。

木下孝治社長と眞知子さんの出会いは、高校の同級生の結婚パーティーでのことでした。

たまたま隣同士になった二人は、意気投合して、そのまま交際に発展していったそうです。

ちなみに、奥様の眞知子さんは、鶴来町(現在の石川県白山市)出身で、石川県立金沢商業高等学校を卒業しています。

木下孝治社長は、23歳のとき結婚して、長男がいます。

息子さんは、木下隆介さんで、株式会社いちもんの取締役で、株式会社エムアンドケイの取締役COOでもあります。

まとめ

  • 木下孝治社長は、1951年石川県金沢市に生まれ。
      木下孝治社長は、金沢市立工業高校を卒業後、北陸ミサワホームに入社。
      その後、いくつかの会社に転職し、父の建設事務所を引き継いだ。
  • 木下孝治社長は、1999年に株式会社エムアンドケイ設立。
      本格派志向の回転ずし店など飲食業の展開に乗り出す。
  • 木下孝治社長の推定年収は1500万円から2000万円。